信濃路連句の旅(第三日/須坂-長野-松本-東京)
IMGP2744.jpg

三日目も5:00に起床して朝風呂。7:00から食堂で朝食。

食後に早発ち組とお別れ。残り組は徒歩15分ほどの場所にある「蓮生寺」まで足を運び、同寺所蔵の「奉納俳諧発句合」の扁額などを拝観する。当山の住職であった知一師が、願主として文化七年三月二十四日に奉納したもの。当時の俳諧師五十二人の名と発句が記されてあり、判者としてこれに加わった一茶の句も含まれている。

荷物を預けておいた旅館に引き返し、09:30に宿の玄関先からマイクロバスで小布施の町へ。そこを見学する方々と別れ、ご婦人お三方とタクシーで長野電鉄小布施駅へ。間の良いことに10分ほどの待ち時間で長野行き特急が来る。

およそ30分の乗車で長野駅到着。新幹線で帰京する三人と別れ、11:26発天竜峡行き快速みすずに乗車し松本へ。川中島、姨捨を経由して12:30に松本到着。

駅構内のロッカーに荷物を収めていると後から名を呼ばれる。振り返ると早発ち組の徳島から参加されたお二人が笑顔で立っておられる。間もなく名古屋経由でお帰りとのことで二度目のお別れをしたが、まことに奇遇のことであった。

それより市街散策。山菜天麩羅蕎麦で腹ごしらえをした後、すでに何度か歩いたことのある街中をバス通りに沿って松本城の方角へ。ただし今回はあまり時間がないので、お城は省略して蔵の多い通りから市内中央を流れる女鳥羽河畔を辿る。汗ばむほどの陽気。

再び駅前に戻り、土産に生蕎麦・野沢菜漬・山葵漬などを買い入れ、15:19発あずさ24号に乗車し、立川駅に17:39到着。快速電車に乗り換えて帰宅。

IMGP2713_20100525180652.jpg

IMGP2717.jpg

IMGP2729_20100525180651.jpg

IMGP2761.jpg

IMGP2764_20100525180802.jpg

IMGP2765.jpg

IMGP2769_20100525180801.jpg

IMGP2771_20100525180800.jpg

IMGP2780.jpg

IMGP2782_20100525180826.jpg

*撮影機材 :PENTAX K-7 +SIGMA17-70mm f2.8-4.5 DC MACRO


とびぃ
旅行
0

信濃路連句の旅(第二日/須坂)
IMGP2693.jpg

二日目は5:00起床。朝風呂の後、一行と朝食の会食。9時にホテルのマイクロバスで本日の会場となる「豪商の館 田中本家」へ。9:20到着。受付を済ませて邸内の見事な庭園を鑑賞しながらしばらく待機。

10:00に午前の部の講話が始まる。佛淵健悟氏による『連句から見える一茶』は、これまであまり注目されて来なかった一茶の連句作品を通して彼の俳諧師としての生活に迫ろうとする意欲的な試み。

12:00からは連句実作の会。休憩の間に五卓の座が設置され、当地にちなむ名前が付けられている。連衆はあらかじめ指定された座に分かれて、昼食を摂りながら付合が始まる。筆者はその中の「斑尾(まだらお)」の座の捌(さばき)を命ぜられていたので、座に連なる方々に運びのあらましを説明する。15時30分までに終了する予定となっているので、半歌仙で長短十八句の付合を行うことを提案して早速開巻。

発句は捌が呈示し、その後は四人の連衆が一句ずつ付け進めて一巡の後、以後はよい句が出るたびにそれを採用するという出勝乱吟(でがちらんぎん)の方式に従うことにする。

連句はまったく初めてという方が二名加わっておられたので、予定時間内にうまく巻き収められるか、少々気掛かりであったが、同席したベテランの丁那さんに要所を支えて頂いたので、思いの外順調に進み、15:00までに余裕をもって満尾することが叶い、安堵の胸を撫で下ろす。その一巻を以下に掲げておこう。

       信州連句のつどい 半歌仙「田中家に」の巻
                      宗海捌
                 首尾 2010.05.16

 発句 田中家に足裏(あうら)涼しき畳かな   宗海 三夏
 脇   若葉目にしむ久々の晴れ       信子 初夏
 第三 ぐずる子もやがて静まるおんぶして   奈岐 雑
 四   母と同じき染めのお財布       節子 雑
 五  湖の真央(まなか)に高き望の月     丁那 仲秋/月
 折端  秋の山並旅人を呼ぶ          節 三秋

 折立 葡萄酒を醸す麓の修道院         那 晩秋
 二   宅急便が真直ぐに行く         節 雑
 三  紅引いてカーテン開けて君を待つ     節 雑/恋
 四   ジウ姫*に似て恋舌足らず        那 雑/恋
 五  毛並良き猫の咽喉(のみど)に指這はせ   海 雑
 六   解けかかりたる靴紐を結ふ       岐 雑
 七  着ぶくれて月見る縁の暖かさ       岐 三冬/月
 八   甍のうへをふはり綿虫         那 初冬
 九  路地裏の悪戯っ児に睨まるる       那 雑
 十   二階の壁を罅(ひび)が一筋       岐 雑
 十一 花の町美人姉妹の賑やかさ        節 晩春/花
 挙句  うつらうつらと春の夢見る      執筆 三春
 * ジウ姫…韓国女優チェ・ジウ(崔 志宇)


館長の挨拶を最後に16:00閉会。終了後に、刀剣類・茶道具・衣類などを収めた展示館を見学、須坂温泉にある今夜の宿にバスで向かう。入浴後、18:30から宴会。その後会議室「木蓮の間」にしつらえられた別席にて半歌仙。22:00に終了し、就寝。

IMGP2686.jpg

IMGP2694.jpg

IMGP2701.jpg

IMGP2704.jpg

IMGP2706.jpg

IMGP2711.jpg

*撮影機材 :PENTAX K-7 +SIGMA17-70mm f2.8-4.5 DC MACRO
とびぃ
連句
0

信濃路連句の旅(第一日/東京-長野-須坂) 【追記アリ】
IMGP2644.jpg

このたび「季語研究会」の企画・主催による、信州須坂吟行・連句会に参加する機会を得たので、その旅のあらましを記して備忘に供することにします。

東京駅9:04発長野新幹線あさま565号にメンバーたちと分乗して長野へ。改札口を出たところで今晩投宿するホテルの迎えの車に荷物を預け、しばらく自由時間の市内見学。単独で撮影を兼ねた街歩きを楽しむことにして、駅前から善光寺方面に足を運ぶ。

裏通りを選んで北に向かい、善光寺を見物した後、門前の古そうな一軒を選んで蕎麦を肴に浅酌。

午後の集合場所、長野電鉄善光寺下駅にて一行と落ち合い、13:50発の電車で須坂駅へ。そこでホテルのマイクロバスに乗車、高山村の「一茶ゆかりの里」に到着。館長の案内で「一茶館」の展示品を見学。

一茶の生涯がグラフィックと人形で紹介され、同県出身の故小松方正によるナレーションが流れてくる。一茶の真筆『父の終焉日記』(複製)一巻が細長いガラスケースに収められているのが目を惹く。他にも一茶遺墨の数々が展示されていて興味深い。

庭内には現地から解体移築された一茶逗留の「離れ家」があり、室内に入って見ることができる。

予定を1時間も越える見学の後、バスは山田温泉にある今夜の宿に向かう。ひと風呂浴びた後、18:30より夕食。総勢16名の自己紹介があって、歓談の後にお開きとなる。20:00より別室に設けられた座に集まり、酒恋歌仙「恋尽くし」の巻(本ページ末【追記】参照)を興行、23時までたっぷり連句法楽に浸った後に就寝。 (この項続く)

IMGP2605.jpg

IMGP2619.jpg

IMGP2636.jpg

IMGP2637.jpg

IMGP2651.jpg

IMGP2654.jpg

IMGP2664_20100519170757.jpg

IMGP2668.jpg

IMGP2678.jpg

*撮影機材 :PENTAX K-7 +SIGMA17-70mm f2.8-4.5 DC MACRO

【追 記】

 信州十六員 酒恋歌仙「恋尽し」の巻   首尾 2010.05.16
                 於山田温泉 一巡後出勝乱吟

 発句 山路来て五月幟は恋尽し             わこ
 脇   菖蒲(あやめ)で打(ぶ)った人の横顔     雀羅
 第三 下戸なれど養命酒など飲みをりて         宗海
 四   メールで送る愛の告白             政利
 五  十五夜の女系に背く歌の家            光明
 六   爽やかに酌み君と結ばれ          たんぽぽ
 七  肌寒に目覚めてをりぬ泣きにけり         政志
 八   引き返されぬ思ひいづこに          ゆふな
 九  飲み下すいかなる故のささの苦み         義子
 十   カサノバと逢ふ風の三叉路          みどり
 十一 ひそと待つ仮面の奥に十の貌           葉月
 十二  子どものくせにwineたしなみ        節子
 十三 筒井筒冬満月に手をつなぎ           あんず
 十四  そんなはずではないよ毛裘(けごろも)     恒子
 十五 モンローの溜息すこし黄ばみたる         丁那
 十六  艶句とおみき大嫌ひなの          まんだら
 十七 美しき心模様の花筏                羅
 十八  盃持つは曲水の宴                こ
 十九 遅霜に哭いてる比丘の宿酔             那
 廿   歯ぎしりをするアラフォーの朝          利
 廿一 うばふ人心に決めて眉を引く            な
 廿二  彼のしぐさはすべてかはゆい           海
 廿三 雨が好き暗闇好きの私です             月
 廿四  回し呑みするドライマティーニ          ず
 廿五 あだなさけ凍てし心の解けだして          こ
 廿六  美形の鶴に恩を押売り              明
 廿七 いいといふまで絶対に開けないで          ず
 廿八  変し変しと丸窓の月               義
 廿九 苦の娑婆に君の微笑み新酒汲む           な
 卅   落穂ぢやないと励む婚活             明
 卅一 この先はなるようになるからつ風          ぽ
 卅二  白雪姫の目を覚ますキス             志
 卅三 おいちにの薬効くよとウインクす          羅
 卅四  アコーディオンが開く世の中           海
 卅五 ゴンドラの二人を包む花吹雪            恒
 挙句  金髪に寄るてふてふの影             節


とびぃ
連句
3

文音四吟歌仙「糸遊や」の巻② (裏六句目まで)


なにかと式目(連句の約束事)による制約の多い表六句を無事終えて、ここから初折の裏に入ります。

歌仙形式の連句の作法では、句を書き付けるのに二つ折りにした懐紙二枚を用い、それぞれを初折(しょおり)・名残折(なごりのおり)と呼びます。そしてそれらの表裏四面に長短三十六句を、初折表六句、初折裏十二句、名残折表十二句、名残裏六句という配分で書き付けていきます。その懐紙面における位置がそのまま句の呼び名としても用いられます。

初折裏に入った一巻は次のように付け進められました。

 発句 糸遊やカメラひとつを道連れに     遊糸
 脇   軽やかに行く紫雲英咲く原      宗海
 第三 風船は子の手離れて空にあり      禿山
 四   犬と競り合ひ追ふフリスビー     笑女
 五  朝まだき雨戸を繰れば涼新た       海
 折端  湖上はるかに有明の月         糸

 折立 クラス会話は尽きぬ長い夜        笑
 二   瞼に浮かぶ故郷の山          山
 三  世界地図訪ねし町に丸印         糸
 四   銅貨ひらりと投げる噴水        海
 五  願ひ事叶ひて参る太子堂         山
 六   嫁御の父は涙隠して          笑


表折端  湖上はるかに有明の月         糸 三秋/月
裏折立 クラス会話は尽きぬ長い夜        笑 三秋

表六句目を折端(おりはし)、裏一句目を折立(おったて)と呼びます。これは両句が上記の懐紙の表と裏の境目に位置することからそう呼ばれるようになったものです。
ここの折立句は、前句を旅の宿と見て、そこに泊まりがけで開かれたクラス会の有様を思い描いて付けたもの。実は現実のわれわれも、この六月に故郷の温泉宿で古稀の祝いを兼ねた会を催すことになっています。「夜長」が三秋の季語。

 二   瞼に浮かぶ故郷の山          山 雑

二句目は前句に素直に応じたもの。前句までに秋が三句続いたので、ここは(ぞう)すなわち無季の句で応じました。歌仙式目では、春秋句は三句以上五句まで、夏冬句は一句、または二句まで続けることになっており、この決まりを句数(くかず)と称します。

 三  世界地図訪ねし町に丸印         糸 雑

三句目は、前句に盛られた場所への追憶を、さらに海外旅行へと拡げたもの。初案は「(町を)朱でしるす」だったのを、作者と相談の上このように改めました。句に具体性を持たせたいというのがその狙いです。

 四  銅貨ひらりと投げる噴水        海 三夏

四句目、前句の「町」からイタリアの古蹟を思い浮かべて付けたもの。「ひらりと」におしゃれな感じを持たせました。「噴水」が夏の季語にあたります。

 五  願ひ事叶ひて参る太子堂         山 雑

五句目は前句の世界から一転して、聖徳太子を祀る堂にお礼参りをする人物を登場させました。「銅貨」から賽銭への連想をはたらかせたもの。このような神仏に関する句材は神祇釈教と呼ばれます。

 六   嫁御の父は涙隠して          笑 雑/恋

歌仙では一巻の中に必ず、男女の恋の情を詠むこととされ、そうした恋句(こいのく)のない作は半端物(はんぱもの)としておとしめられます。前句の「願ひ事」に恋の呼び出しの気配を感じ、これに応ずるように要請して生まれたのがこの六句目です。願いのかなった娘の晴れ姿とその父親の有様が、前句と溶け合って浮かんできます。
(この項続く)
とびぃ
連句
2

文音四吟歌仙「糸遊や」の巻① (表六句)
IMGP2587.jpg

今日の画像は桐の花。5月8日のツィッター今日の季語】で初夏の季語として取り上げました。

今日の季語】桐の花(きりのはな):「花桐(はなぎり)」とも。初夏の頃遠くからもそれと知れる高木に香り高い紫の花を付ける。その形は紋章などに図案化されて馴染みが深い。◆桐咲いて雲はひかりの中に入る(飯田龍太) #jhaiku #kigo



中学時代の級友たちとメール上で興行する文音(ぶんいん)歌仙の通巻第五巻が、目下ネット上で進行しています。今回は私の停年退職をご連衆が祝ってくださるという趣向により、前回から参加されることになった遊糸さんの発句で始まりました。

  宗海停年退職記念 いわき文音歌仙『糸遊や』の巻
                      宗海捌
                起首 2010.04.06

 発句 糸遊やカメラひとつを道連れに     遊糸
 脇   軽やかに行く紫雲英咲く原      宗海
 第三 風船は子の手離れて空にあり      禿山
 四   犬と競り合ひ追ふフリスビー     笑女
 五  朝まだき雨戸を繰れば涼新た       海
 折端  湖上はるかに有明の月         糸


 発句 糸遊やカメラひとつを道連れに    遊糸 三春

候補五句の中から「捌(さばき)」を務める私が選んだもの。趣味のカメラを句材として定年後の自由な時間を手にしたばかりの庵の主人への挨拶を籠めたもの。陽炎(かげろう)の別名「糸遊(いとゆう)」が三春の季語にあたります。

 脇   軽やかに行く紫雲英咲く原     宗海 晩春

発句の季が三春なので、当季を定めるべく、脇では晩春の季語「紫雲英(げんげ)」を用いました。そろそろ足もとが覚束なくなる年齢なので、句中で皆さんの健脚を祈念するご挨拶返しをしました。

 第三 風船は子の手離れて空にあり     禿山 三春

第三は禿山氏の付番。第三は一巻の変化の始まる場所。発句と脇の構成する世界から大きく離れなければなりません。
歌仙では、春秋の季は三句から五句続ける定めなのでここも春の季語を用います。ただし、前句が晩春なので、これに初春または仲春の句を付けると季戻りになるため、晩春または三春の季語を選ぶことが必要です。
吟味の過程に紆余曲折がありましたが、最終的には上記の句に落着しました。「風船」が三春の季語。第三の句末は「て」留めが定式ですが、ここは用言留めにして趣を変えてみました。

 四   犬と競り合ひ追ふフリスビー    笑女 雑

四句目は笑女さんの付番。この句所はあまり趣向をこらさず、あっさりと軽く付けることをよしとします。草原を場景とする脇に付けた前句を、今度は公園や川原のような場所に見立て替えをして、犬と興ずる人の姿を詠んだものです。

 五  朝まだき雨戸を繰れば涼新た      海 初秋

五句目からは一巡した付順を入れ替えます。ここは通例ならば月の座にあたる句所ですが、打越(一句隔てた前の句)に「空」があるため、ここで月を出すと、同じ天象の句材と差合を起こしてしまいます。そこで月は次にこぼすことにして、初秋の季語「新涼」によってそれに備えました。前句の時分を朝と見なした付句にあたります。

 折端  湖上はるかに有明の月        糸 三秋/月

上に記したようにいささか変則的ですが折端で月を出すことにしました。単に「」と詠めば三秋の季語になります。前句の場景を今度は湖の見える場所に転じ、湖上に有明月を描き出しました。
 (この項続く)

*撮影機材 :PENTAX K-7 +SIGMA17-70mm f2.8-4.5 DC MACRO
とびぃ
連句
0

龍馬書状の言葉 -軍(ゆくさ) ②-
img265.jpg

本日の画像も特別展「龍馬伝」絵葉書から。

この龍馬歌「世の人は われをなにとも ゆはゞいへ わがなすことは われのみぞしる」は「坂本龍馬詠草二」(京都国立博物館蔵)によるものです。語学的には、下の句「言はば」に「いふ」が「ゆふ」の形で用いられている点が注意されます。

前回引用した龍馬の手紙には、「軍」の読みとして期待される「イクサ」ではなく「ユクサ」の振り仮名が施されてありました。

この語形は『日本国語大辞典(第2版)』「いくさ【軍】」の項目に[発音(なまり)]として「ユクサ」の一項が示されており、この形を用いる地域には「福井大飯・岐阜・飛騨・静岡・鳥取・島根・佐賀」の各地名が見え、西日本を中心とする地域にこの語形が用いられていたことが知られます。ここには「土佐」はありませんが、龍馬の書状の用例から、かつてはこの土地でも用いられていたことがうかがわれます。

ちなみにこの語形は室町期の文献の中にも姿を見せます。『時代別国語大辞典 室町時代編』「ゆくさ[戦]」の項には「『いくさ』の転」として次の2例が引用されています。

陣中振動シテ 戦勝ツコトハ 一向 神ユクサ*ノ様ナゾ (四河入海 廿二ノ四) * 神ユクサ …「神軍(かみいくさ)」。神の軍勢。

タトヘバ ユクサノ マツサキニ スヽム衝車ヲ 折(くじ)ク様ナゾ (山谷詩集鈔 九)

これらの例はいずれも「抄物(しょうもの)」と呼ばれる、漢籍の注釈書にあたる資料に出るもので、龍馬の手紙に見える「ユクサ」は歴史的に中世後期にまでさかのぼる語形であることが知られます。
とびぃ
日本語
0

龍馬書状の言葉 -軍(ゆくさ) ①-
img264.jpg

龍馬関連の話題をもう少し続けることにしましょう。

上の画像は特別展「龍馬伝」会場で入手した絵葉書によるもの。よく知られた龍馬立像写真(高知県立歴史民族資料館蔵)に、文久三年(1863)六月二十九日付龍馬書簡(京都国立博物館蔵)の一節を配したものです。

この書簡は姉乙女に宛てて書かれたもの。上の写真に出る箇所の前後の文章を次に引用します。

龍馬二三家の大名とやくそくをかたくし、同志をつのり、朝廷より先ヅ神州をたもつの大本(タイホン)をたて、夫より江戸の同志【はたもと 大名其余段々】と心を合セ、右申所の姦吏を一事に軍いたし打殺、日本(ニツポン)を今一度せんたくいたし申候事ニいたすべくとの神願(ガン・ネガイ)ニて候。


この直前には、同年五月十日に下関で起きた長州藩による異国船砲撃事件のことが記されています。

ながとの国に軍(ユクサ)初り、後月より六度の戦に日本甚(ハナハダ)利すくなく、あきれはてたる事ハ、其長州でたゝかいたる船を江戸でしふくいたし、又長州でたゝかい申候。是皆姦吏(カンリ)の夷人(イジン)と内通(ナイツウ)いたし候ものニて候。


龍馬はこの事件の際に、砲撃で破損した船を江戸に送って修理し、それを再び戦闘に使用したことに対して、それを命じた者を「夷人と内通」した「姦吏」と罵り、そういう手合いを殲滅して日本をもう一度洗濯したいという抱負を姉に語っています。

ちなみに、ここに「しふく」とあるのは「しゅふく《修復》」の拗音シュがシに直音化したもの(例:シンジュク(新宿)>シンク)で、現代でも栃木・佐渡・宮崎などの各地に方言として残る語形。龍馬もこの形を使用していたことを示しています。
現代語では「しゅうふく」ですが、古くは呉音読みにあたる「しゅふく」の形を用いました。

それとは別に、やはり上記のくだりに出る「軍」に「ユクサ」の振り仮名が施されていることも注目されます。 (この項続く)
とびぃ
日本語
0

thema:ことば - genre:学問・文化・芸術


龍馬は「ピストル」を何と呼んだか -3- 【追記・訂正アリ】
龍馬のピストル左の画像は高知県立坂本龍馬記念館に陳列されている、龍馬の所持した短銃の模型。

説明によれば、上の大きい方は寺田屋で襲撃を受けた折に龍馬が使用した六連発短銃、下の小型のは前々回引用の龍馬書状に記されたお龍の所持品と同型で後に近江屋で暗殺された龍馬の所持していた五連発短銃、それらを模して作られた複製品。オリジナルはいずれも紛失および焼失のために現存しないとのことです。

ところで、前回までに取り上げた龍馬書簡に見える、このような銃器を指す「タンポヲ」および「たんぽふ」という名称は、同じ語を二とおりの仮名表記で表したもので、長音拍の表記の"ゆれ"によってこのような二種の表記が生まれたものと解することができます。

ただしこれに該当しそうな語は、『日本国語大辞典』(小学館)および『大漢和辞典』(大修館)の両大辞典を検索しても探し当てることができません。

私見によれば、これは「短砲(たんぽう)」と表記するのがふさわしい漢語であり、別の漢語の「短銃」および洋語の「ピストヲル」(オランダ語 pistool に由来する)とは別に、当時一部の階層の間に通用していた新造語と考えるのがよいと思われます。

当時、上海などから舶来された小火器を呼ぶのに新しく作られた「短砲」というこの呼称からは、風雲急を告げる幕末期の緊迫した空気も感じられます。

しかしそれも束の間、この語は銃口から吐き出された硝煙のごとくに たちまち姿を消して 廃語の運命をたどることになったものと思われます。

【追記 2010.05.04】 この記事について、私の中学校時代の旧友S氏から「拍手」欄に次のようなコメントが届きました。

本編興味深く拝見、何処かでと思いましたらちゃんばら映画を良く見た子供の頃タンポーは聞いており、遊びで打つ真似などしてました。となると昭和27年頃までは生きていた言葉?
   
これは思いがけない情報! しかも私の郷里のすぐ近くの地域で"タンポー"が昭和27年頃までも生きていたとは!
この言葉の命は思ったよりも長かったことになりますね。これを承けて最後の記述に手を加えました。他にもこの言葉をご存じの方がいらっしゃいましたら、ぜひ情報をコメント欄にお寄せ下さい。
とびぃ
日本語
0

龍馬は「ピストル」を何と呼んだか -2-
龍馬01-1

前回に引用した姉の乙女に宛てた龍馬書簡では、ピストルを「短銃」と記しています。ごく常識的な表記ですから、これだけならば格別目に留めるほどのものではありませんが、ここに「タンポヲ」という振り仮名の施されている点が注意されます。これはいったいどういう言葉でしょうか。

上記の龍馬書簡には、この後にも次のようなくだりがあります。妻お龍について述べた記事です。

此頃、ピストヲル(たんぽふ)ハ、大分よく発(ウチ)申候。誠ニみよふな女ニて候得ども、私しの云ことよく聞込ミ、又敵お見て白刃をおそるゝことおしらぬものニて (下略)

当面の問題とは別に、このお龍に対する人物評が面白い。「誠ニ」以下を標準的な表記に書き改めるとこうなります。

まことに妙な女にて候へども、私の云ふことよく聞き込み、また敵を見て白刃を恐るることを知らぬ者にて

伏見寺田屋で縛吏に襲われた龍馬をとっさの機転で救った、そのお龍の女傑ぶりを彷彿とさせる記事です。龍馬もその一件を思い起こしたらしく、ここの行間に「ふしみのことなど おもいあわせたまふべし」という注記を書き入れています。

龍馬はここで、お龍がピストルの射撃にも慣れていることを述べていますが、その武器の名を外来語で「ピストヲル」と記し、さらにそれとは別に「たんぽふ」という書き入れを加えた点が注意されます。これは姉の理解を助けるための注記に相当するものと解されます。 (この項続く)

とびぃ
日本語
0

龍馬は「ピストル」を何と呼んだか -1-
龍馬03-1

前回記した特別展『龍馬伝』に出品されている龍馬書簡の中に、彼の所持していたピストルに関する記事のあることに気付きました。

慶応三年(1867)六月二十四日に、姉「乙女(とめ)」と姪(あるいは乳母とも)「おやべ」に宛てて書かれた長文の書簡(展示作品番号79-6)の中に、次のようなくだりがあります。
 (注) 以下の書簡本文は Wikisource 所収「坂本龍馬の手紙」による。
 カッコ内は原文にある振り仮名。句読点は筆者の判断による。

短銃(タンポヲ)おこせとのこと御申、是ハ妻ニも一ツつかハしこれあり。長サ六寸計、五発込、懐剣よりハちいさけれども、人おうつに、五十間位へたゞりてハ、打殺すことでき申候。其つれが今手もとにこれあり候得ども、さしあげ不申候。

これは、姉が家を出たいという相談を龍馬に持ちかけたことに対する返事の一節にあたるものですが、彼女はその際の護身用として、龍馬の所持していたピストルを所望したものと思われます。

これに続いて「妻にも一ツつかハしこれあり」とあり、彼は自身用の他に「妻」お龍にも別の一丁を与えていたことが知られます。

それは、長さが18㎝ぐらいで銃弾5発を込められ、懐剣よりは小さいものの、90mほどの距離から人を撃つことができるというもの。

しかし龍馬は、同じ種類のものが私の手元にもありますがそれを差し上げるわけにはいきません、と姉の依頼を断っています。 (この項続く)

*撮影機材:RICOH GR-DIGITALⅡ 28mm f2.4
とびぃ
日本語
0

| HOME |